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私見・子どもの本に関わって

  私が生まれたのは昭和11年(1936)、日本が満州国を成立させ、さらに中国に侵略戦争を仕掛け、戦線を拡大しつつあるときである。国家予算のうち莫大な軍事予算は増大の一途をたどり国民一般の生活は圧迫され、子どもの本などは軽視されていく。

 私のうちでは姉のためにキンダーブックをとっていた。それらはしっかりした厚手の紙で造本された大判の美しい絵本であった。色にあふれた絵が描かれたページをめくるにつれて物語が進行してゆく。私は繰り返し繰り返し読んでもらったり、我流でこしらえた物語を唱えたりして愛読していた。けれども次第に私のために届けられるキンダーブックは姉のために購入していたキンダーブックとは比べものにならないほどみすぼらしく貧弱になり、つまらなくなっていった。空襲を恐れ父一人を東京に残して母と子どもたちは父の出身地である山陰の町に疎開したが、絵本のことだけではない、空腹、労働、周囲からの冷たい対応、無神経な嘲罵などに囲まれると、戦争のせいで幸福な暮らしが失われてしまったのだと子供心にも強く感じた。限られた疎開荷物の中に入れられたアンデルセンやグリムなどの童話に読みふけるのが唯一の楽しみだった。尊皇愛国、戦意高揚などを強調する本のほかのまともな児童用の本などは出版されないのか、山の中の町までは届かないのか、買ってもらえなかった。活字を求めて近所の人(ただ一人母と親しくしていた方)の蔵書から大人向けの本を手当たり次第に借りてきて読み耽った。吉川英治の宮本武蔵、谷崎潤一郎による現代語訳の源氏物語などのほかに小さい活字がぎっしり三段に詰め込まれた日本文学の叢書から何人かの作家たち・・・。これらの本は小学校高学年から中学校の私には理解できぬばかりか、咀嚼して味わい共感する事などとは遙かにかけ離れていた。この年齢の私の心を涵養するべき読書の世界は極めて貧弱で、ある意味では砂漠と同様といえようか。成長するにつれ 私は児童文学から遠ざかっていった。

 結婚後、子どもが与えられた。町の本屋で児童書と巡り会った。簡潔な線と鮮やかな色彩で構成される画面と物語、ディック・ブルーナのうさこちゃんシリーズをはじめとして紹介されている外国の絵本の数々。私は砂漠で泉に出会った旅人のように子どもの本に夢中になった。我が子の年齢に相応しい本だけでなく、それらよりも年上向きの本まで買いこんで成長を待ち構え(?)読み聞かせた。理解したのかどうか彼がはっきりと反応して喜んだのに対応して次々に買い求めて読み聞かせた。子どもの絵本というと一般の人々は“チャチな本でよい”と考えているが、私は決してそれで良いとは思わない。人生の始まりの時期にこそ “美しいもの” “善いもの”“真実なるもの”に触れさせて、子どもたちの人格の基礎としなければならないと思う。けれども良質の児童書・絵本は結構な値段が張る。次々に誕生する子どもたちの旺盛な「食欲」に対応するのも経済的にはしんどいな~と考えていた。次に住んだ町では移動図書館車が毎月二度巡回していた。私と子どもたちはそれぞれの希望する本を腕一杯に抱えて帰り読みふけった。年嵩の子どもたちは独りで読んだけれども、末の子に私が絵本を読み聞かせているとその上の子もやってきて一緒に聞き入るのだった。これは小学校卒業まで続いた。半世紀たっても忘れられない幸せな時間の思い出である。

  1975年に千葉市に引っ越してきたが、近くには本屋はなく、図書館は3kmも離れている。移動図書館車もやって来ない。移動図書館車が巡回してくれるようにと図書館へお願いに行ったけれども、“お宅の地域は巡回ル-トの計画には入っていません”と素っ気ない返事。絶望的になったが、以前読んだ石井桃子著『子どもの図書館』(岩波新書)に触発されて、身近に小さな図書館=文庫を作ろうと決心した。幼稚園に通う子どもを送り迎えする道すがら、お母さんたちと語り合い一致団結。手分けして団地の自治会役員に働きかけ、集会所で文庫を開くことが認められた。およそ30名の仲間たちが発する熱度は高く、もろもろの難題を切り抜け、1976年 団地の集会所の一隅で「ファミ-ル文庫」が誕生した。これまで本に親しむ機会が乏しかったからであろうか、大勢の子どもたちが押しかけて来た。絵本の読み聞かせには目を見開いてページを見つめ、物語の進展にじっと耳を傾ける。このような反応は私たち文庫のメンバ-に驚きと喜びをもたらし、文庫の運営にも勇気と希望をいだかせた。児童書をなるべくたくさん読もう、読み聞かせについて仲間で勉強会をしよう、などと語り合ったものだった。数年後、細谷みどりさんをはじめとして千葉市で文庫を開いている仲間たちが集まり千葉市文庫連絡協議会(略して文連)を結成した。 

  「子どもたちに優れた本を届けたい、子どもたちの近くに本を楽しめる場所がほしい」を共通の願い・目的として文庫にかかわる大人たちも向上しよう、いろいろと学んでいこうと講演会を開いたり、選書会では一冊の本を巡って意見をかわしたり・・・熱心に取り組んだ。このような文連の姿勢に図書館をはじめとして行政側の態度も変わってきた。大勢の仲間たちがいるということはまことに強い力を持つものである。はじめは講師を招いて講演会を開くにも費用は各自が自腹を切って参加していたのだったが、のちには市が講師の招聘、その他の費用を負担してくださるようになった。文庫に対して本を貸し出す団体貸出制度も設けられ、それらの本の選定にも要望を聞き入れてもらえる。さらに近年になると図書館協議会の委員にも加われるようになった。従来なら自発的な市民の発案する動きには、概して警戒的な冷淡な目を向けるのが行政側の姿勢だったが、変化はいちじるしい。まことに今昔の念に耐えない。ところが、現在、文庫の数が最盛期に比べると減っている。原因としては、子どもの数が減少していること、各地域の年齢構成の変化、高齢化 、文庫を運営している方々自身の高齢化などが考えられる。やむを得ない事情もあるけれども、もしもそうでなければ発足の事情や団結し協力し合うことの大切さ、すなわち強さを考えて、各々の文庫の独自性を尊重して大同小異の姿勢と寛容の精神を忘れずに文連を育て護持し持続されることを切望してやまない。

  前述したことと重なるが、子どもたちに絵本や物語などを読み聞かせすることの大切さを改めて考えてみよう。 幼い子どもに読み聞かせをするときには、かれらの未だ十分ではない経験の範囲内でも感知できるよう“この世界は楽しいところです”とのメッセ-ジがこめられている絵本を選ぶことが望ましい。美味しい食べ物、美味しそうな色の果物、身近な動物、きれいな鳴き声の小鳥、美しい花、乗り物、家族、友だち、遊び など題材は多岐にわたっていてもよい。とにかく楽しい時間を過ごせること、絵本を楽しめること、そして絵本は楽しいものであると認識することが重要であるとおもう。愛されて育ち楽しい経験が豊富な子どもの表情はまことに可愛らしくて、周りの者たちにも幸せをあたえてくれる。少年期になってから必要とされる読書力は、幼年期の読み聞かせをしてもらった経験の上に形成されるのではないだろうか。言語能力、思考力、推理力、その他の能力の基礎となるだけでなく、他者への理解、共感、思いやりなどの社会性の基盤も身につくかもしれない。成人となって遭遇する危機を乗り越え、克服する力の根源には子ども時代の幸福な思い出が大きな役割を果たすといわれている。さらに近年になって幼児期の読み聞かせが老年期にも影響を及ぼすのではないかとの見解も現れている。

  アメリカの脳神経学者の研究“100歳の美しい脳:アルツハイマーの研究”によると:大勢の天寿を全うした修道女たちから提供された(生前に研究対象とすることを約束してもらっている)脳の解剖所見から、加齢による変化では認知症になってもおかしくない形態であるのに最後までそうならなかった例が多く見られる。その人たちの生前の生活状況について周囲の人たちによる証言や記録などと対比・関連づけて考察するとほとんどの人たちに共通していることは、子ども時代に日常的に親に読み聞かせをしてもらっていた事で、これ以外に理由が考えられない、とのこと。(参照: 末盛千枝子 『「私」を受け容れて生きる-父と母の娘-』 新潮社 p114~115)

  老年期になって現れるとされる認知症には、子ども時代に読み聞かせをしてもらって育てられた経験がかなり影響するのではないか。読み聞かせをしてもらうと脳のどこかに人間には見つけられない何かが生成されるのではないか。言い換えれば、子ども時代にたくさん読み聞かせをしてもらった人は、なぜか知らないが認知症になりにくいのではないか。明晰な頭脳を保ち周囲の人たちと精神的な交流を保ちながら幸せな人生の最終期を送る事ができるのかもしれない。とすると、私たちが文庫で子どもたちと関わっていることは、一人ひとりの人生に重要な関わりを持つことになる。

  私たちが文庫にくる子どもたちに絵本を読み聞かせするのは、目の前の子どもたちに楽しみを提供するだけでなく、その子たちの生涯で遭遇するいろいろな時期=場面に於いて支えとなり有効な働きをもたらす力の源になるようにとの願いをこめた祈りとして取り組んでいきたい。

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